NHKなどでもニュースで流れたようですが、今日は、福島県双葉郡広野町のふたば未来学園に行ってきました。とりあえず、この話は、いずれ日記の中で。
ずっと以前に受けたインタビューが先週の金曜日に日刊ゲンダイに載って、それが月曜日あたりにネットに流れて、たくさんの方から反響をいただきました。ありがとうございます。
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/158874
特に、「ハンガリー基本法って何だ?」というご質問が多かったので、以前、講談社の『本』に書いた原稿を、編集部の許可もいただけたので、若干加筆修正して載せます。
なお、私はこの手の専門家ではないので、詳しい事実関係は、こちらをご覧下さい。
http://www.waseda.jp/flaw/icl/assets/uploads/2014/05/A04408055-00-046030039.pdf
以下が私の原稿です。 連載 「下り坂をそろそろと下る」 『本』2015年1月号
ハンガリー基本法 ハンガリー・ブダペスト
十一月五日、羽田発パリ経由の便で、ハンガリーの首都ブダペストに到着した。パリで乗り継ぎの飛行機に搭乗してしばらくすると、「さっきのフライトで鳥がぶつかって、大丈夫かなと思ったんだけど、やっぱりダメそうなので降りてください」という曖昧なアナウンスが流れ、それから別の飛行機に乗り換えたために、ブダペスト到着は深夜となった。
本当は、日程が許せば、もう一日早くブダペストには着きたかった。一九五七年の十一月四日は、ハンガリー動乱の最終局面で、ソビエト軍がブダペストに侵攻した日である。現在、ハンガリー動乱の始まった十月二十三日は、国民の祝日となっているようだが、十一月四日にも何か式典があるのかどうか。できれば覗いてみたかった。
今回は、ノルマンディ演劇祭からの委嘱作品アンドロイド版『変身』を持って、ハンガリーとフランス国内四都市を回る一ヶ月の旅である。もっとも私は、前半の二週間だけの付き合いだが。
ブダペスト二日目。午前中に楽屋で少し俳優たちと台詞の確認をしてから、劇場の招きで近くのレストランで昼食をとる。フランス人の俳優たちから劇場のスタッフに、ハンガリーの歴史と現在の政治状況についての質問が相次ぐ。日本では、あまり知られていないが、欧州において、現在のハンガリーの国家主義的、民族主義的状況は、ある種の注目を集めている。
それぞれにやっかいな歴史を抱えた東欧諸国にあっても、このハンガリーは、もっとも複雑な歴史を有する国の一つである。この国は、東欧の内陸国であり、ドナウ川沿いに開けた肥沃な土地を有している。それ故、多くの侵略者が、この国に流入し支配を続けた。
十世紀までのハンガリー王国の成立過程だけでも、ゲルマン人、フン族、スラブ人、マジャール人、ラテン人などの流入と混血が見られる。十一世紀以降、ハンガリー王国は東欧の強国となり、「聖イシュトヴァーンの王冠の地」と呼ばれる。このことはあとでも触れる。
十三世紀、モンゴル帝国の侵攻と、それに対する攻防。続いて十四世紀にはオスマントルコ帝国の膨張による侵攻。幾多の戦乱の末にハンガリーは、百五十年にわたって、この帝国の支配下となる。その文化的影響はいまでもブダペストの各所に残っている。たとえば、現在は観光名所となっている温泉(ハマム)などは、そのもっとも色濃いなごりであろう。
十七世紀、オスマントルコの支配を離れると、ハンガリーの領土はほぼすべて、ハプスブルク家の領有となる。繰り返される独立運動や、普墺戦争での敗退などを受けて、ハプスブルク家のフランツ・ヨーゼフ一世は、ハンガリーの自治権拡大を認め、自らハンガリー国王を名乗ることによって「オーストリア=ハンガリー帝国」が成立する。
この二重帝国の誕生が西暦一八六七年。明治維新の前年、大政奉還があった年である。
前後して、イタリア(一八六一年)、ドイツ(一八七一年)も統一国家となる。このことは、もちろん偶然ではない。先行する英仏に追いつくために、これらの国々も、遅ればせながら国民国家への道を歩み始めたということだ。
そして第一次大戦。ドイツ、オスマントルコとともに同盟国側で参戦、敗北。オーストリア=ハンガリー帝国崩壊。さらなる紆余曲折ののち、領土の多くを失いながらハンガリー王国がふたたび成立。
ドイツと同様に、戦後の重い賠償金の支払いに苦しむハンガリーは右傾化の道をたどる。ナチス・ドイツと結びつき領土を回復、さらに四一年には、枢軸国側として第二次世界大戦に参戦。ところが四四年、イタリアの敗戦にショックを受けたヒトラーは、他の同盟国に対して疑心暗鬼となり、ハンガリーを占領する。このことが、あとで触れるように、ハンガリーが敗戦国でありながら、その戦争責任を曖昧にする遠因ともなっている。
さらに、このドイツの傀儡政権も一年と持たず、翌四五年四月にはソビエト軍がハンガリー全土を制圧。この際のソビエト軍の暴虐ぶりはすさまじく、ハンガリー女性の半数が強姦されたと言われている(少なくともハンガリー人たちはそう信じている)。
一九四六年、東欧でももっともスターリン主義の色濃いハンガリー人民共和国が成立する。一九四九年、ハンガリー共和国憲法成立。
十年後、一九五六年。スターリンの死後に始まったフルシチョフのスターリン批判を受けて、自由を求めるデモが多発。しかし、ソビエト軍とワルシャワ条約機構の戦車部隊によって運動は鎮圧される。これが冒頭に書いた「ハンガリー動乱」である。二万人が死傷し、二十万人が国外に亡命したと言われている。チェコにおける「プラハの春」に先駆けること約十年。戦後、東欧における、もっとも早く、もっとも広範な民主化運動だった。
八○年代、ソビエトがペレストロイカを始めると、ハンガリーは、いち早く民主化に着手。憲法を改正し、国名もハンガリー共和国と改名した。
一九八九年、オーストリアとの国境の通過自由化にともなう、いわゆる「汎ヨーロッパ・ピクニック事件」によって、一挙に東欧革命、ドイツ統一、ソビエト連邦の崩壊へという流れを作ったのもハンガリーであった。
さて、これから書くハンガリーの現在の国家主義的傾向の背景となる歴史を、本当にかいつまんで書いてきたのだが、ここまででも、島国でのんびり暮らしてきた私たち日本人からすれば、げっぷが出るほどの流転である。私たちは、本当に、幸せな国に生まれ育った。
話を戻す。
もともと肥沃な土地を有し、冷戦時代もルーマニアのような極端な独裁強権政治ではなかったハンガリーは、民主化以降、経済を再建し、「旧東欧の優等生」と言われるまでになった。
しかし、二○○四年から首相の座に着いた社会党のジュルチャーニ・フェレンツは、二○○六年の総選挙に勝利するものの、その年、それまで発表されてきた経済実績が虚偽であったことが暴露され、さらに緊縮財政が不人気を呼び、リーマンショック後の混乱もあって、二○一○年の総選挙で保守色の強いフィデス=ハンガリー市民連盟に政権の座を譲った。
議会で圧倒的多数を得たフィデス政権は、約一年ほどの間に、新憲法である「ハンガリー基本法」を起草、制定し、国民投票なども経ずに施行した。そして、この基本法が、現在、EU各国から、強権的、民族主義的として警戒され、批判を浴びている。
フィデス政権が、この新憲法制定を押し進めた一番の理由は、かつてのハンガリー共和国憲法が、一九四八年に旧体制下で可決され(四九年施行)、八九年の民主化の際に大改訂されたものだからだった。先に記したように、ハンガリーの民主化は、東欧諸国の中でも、もっとも穏便に行われ、先陣を切って国境を開放した。そのために、法整備においても、極めて民主的に、旧憲法を改正するという手段がとられた。結果として、ハンガリーは、旧東欧圏で唯一、民主化後に新しい憲法を制定しない国となった。しかし、民族主義的な色彩の濃いフィデス政権は、ソビエトに押しつけられた旧憲法を改定しただけの共和国憲法を恥とし、自主憲法制定の道を選んだ。
内田樹氏は、『憲法の「空語」を充たすために』(かもがわ出版)のなかで、「敗戦国の中で唯一日本だけが『負けた後に国家再建の足がかりにできるような物語』を持っていなかった」という点、すなわち新憲法に、それを引き受ける主体・主語がないという点が、日本国憲法の本質的な脆弱性なのではないかと指摘している。しかし、ハンガリーも、ある意味、同様あった。いや、旧ハンガリー共和国憲法は、ソビエト社会主義共和国憲法(スターリン憲法)を忠実になぞったような代物だった。ハンガリー女子の半数を犯したというロシア人が作ったような憲法であった。
それを大改定した共和国憲法が、いくら内容が民主的なものであったとしても、「自主憲法」とは認めがたいと感じる人間が一定数いることは理解できる。ハンガリー基本法は、その民族的劣等感、過去の栄光へのノスタルジー、そのノスタルジーの裏返しのルサンチマン、そういった感情の集合体として、突如、登場した。
いまEUで問題とされているのは、たとえば、前文にある一九四四年にナチスによって占領され「独立を奪われた」という文言だ。このことは、四四年三月以降ハンガリー政府が行ったホロコーストへの加担に免罪符を与えるものなのではないかと危惧されている。要するに、この新憲法は、ハンガリーという国家の成り立ちを、先の大戦の反省からではなく、戦争の被害者の立場から出発させようとしているのだ。現にこの前文には、キリスト教やハンガリー民族、家族の重視、あるいは冒頭で触れた聖冠に関する記述といった強い民族主義、伝統主義が見てとれる。
他にも、中央銀行や憲法裁判所の権限の大幅な抑制などが、独裁国家への道を開くのではないか、EU人権条約に抵触するのではないかと捉えられ、多くの関係機関から危惧の声が表明されている、
繰り返す。比較的リベラルだった前政権の政策運営の破綻とスキャンダルから、現政権が圧倒的多数の議席を得た。そして、リベラルではあるが、出自に瑕疵がある現行憲法を否定し、民族主義的な色彩の濃い「自主憲法」を、あっという間に制定してしまった。
どこの国の話だろうか。
私はここに、歴史を学ぶことの、ある種のときめきさえも感じる。
一八六七年と六八年という、たった一年の違いで、それぞれの文明圏の東縁に、当時のグローバリズムの影響を受けて誕生した小さな二つの帝国は、その後百五十年、近現代史の荒波に翻弄され、戦争に勝ったり負けたりしながら現在に至った。そして、一方は、ナショナリズムとグローバリズムを接ぎ木したような新憲法を制定し、他方は、現政権党が、その制定を目指している。
グローバル企業は、その存在の基盤が国民国家にないために、その国家の資産を行使しようとすると、かえってナショナリストを標榜せざるを得ないという構図は、やはり先掲の内田氏の著作に詳しい。いま両国は、ほぼ同じ道のりを歩いている。
実際に、ハンガリー基本法と、自民党憲法草案は、他の点でも、その内容も成立を目ざす過程も、驚くほど多くの類似点を抱えている。自民党がこの憲法草案を発表したのは、二○一二年四月、ハンガリー基本法施行の四ヶ月後である。まさか、自民党が、この悪名高い基本法を真似しようとしたわけではあるまいが、しかし、これは決して、単なる偶然でもないだろう。
十一月七日。無事にブダペストの公演を終えて、打ち上げのレストランに向かう道すがら、片道四車線の大通りを渡った。案内をしてくれた劇場の職員が、「ハンガリー動乱の時には、ここをソビエト軍の戦車が通って、一晩で三千人が、その下敷きになった。ここが主戦場だった」と教えてくれた。私たちが公演をうった劇場は、その場所から五分と離れていないところにあった。
十一月八日。珍しく、一日予定が空いたので、市内の散策に出かける。市街地の中央に位置するハンガリー国立歌劇場。一八八四年に作られた、東欧で最も美しいこのオペラハウスには、フランツ・ヨーゼフ一世から、「ウィーンオペラ座より、少しだけ小さく作れ」と言われたという逸話が残っている。二○一二年の一月には、ここで、ハンガリー基本法の制定を祝うガラコンサートが開催された。同時に、この目抜き通りは、基本法制定に反対する数万人のデモ隊によって包囲されたという。
この日の夜は、夜景の美しいドナウ川沿いを歩いた。現在、ブダペストは、通貨フォリントの下落を受けて、多くの観光客で賑わっている。しかし、その一方、政治的には、ハンガリーは周辺国からの孤立の様相を深めている。これもまた、どこの国の話だろうか。
十一月九日。ブダペスト空港からパリへ。そして空港から車でノルマンディの主要都市ルーアンへ。シャルル・ド・ゴール空港でPCをネットにつないで日本のニュースを見ていたら、新聞各紙が、安倍首相が解散を決意したと報じている。ネットからの情報だけだと、まったく理由が分からない。
さて、この文章が活字になっている頃には、その選挙の結果も出ていることだろう。日本という国が、危うき方向に進まないように、いまは祈るしかない。
ブダペストのオペラ座です。